【コラム】えのきどいちろうのアルビレックス散歩道 第334回

2017/6/22
 「スア カーサ!」

 先週の金曜日、文化放送の朝ワイドに出演した後、JR東海道線で平塚まで足を伸ばしたのだ。湘南ベルマーレの遠藤さちえさんとランチミーティングである。遠藤さんは現在、「セールスユニット・リーダー」という役職だが、僕がサッカー専門紙・誌でお世話になっていた頃は敏腕広報だった。僕は湘南ベルマーレというクラブに圧倒的なシンパシーを抱いているが、その理由の一端は遠藤さんにあるといっていい。

 今回、遠藤さんを散歩道にひっぱり出したのは、もちろん呂比須ワグナーその人を語ってもらいたいからだ。呂比須さんがどんな人物かを語ってもらうのに遠藤さんほど適任はいない。今季、電撃的にアルビレックス新潟の監督に就任したのはどんな方なのだろう。呂比須さんはその知名度のわりに人物像がぼやけている。例えばセルジオ越後さんなら「辛口」とか、キャラが浮かぶじゃないか。呂比須さんはフランスW杯当時の記事を調べても「日本人より日本人らしい」とか、あいまいな表現で形容されることが多いのだった。

 帰化前の「ロペス・ワグネル」選手は1969年1月、ブラジルはサンパウロ州フランカで生まれている。85~87年、サンパウロFCでプレーし、87年の来日後は日産自動車、日立(柏レイソル)、本田技研で活躍、ベルマーレ平塚には97~98年の2年間在籍した。ちょうど20年前だ。たった2年だが、それは彼にとっても日本サッカーにとっても重要な時期だった。97年、帰化申請が通り「呂比須ワグナー」は日本国籍を取得している。「ジョホールバルの歓喜」の瞬間はピッチにいた。翌98年は日本が初めてW杯に出場した年だ。ジャマイカ戦で中山雅史が挙げた日本初ゴールは呂比須さんがアシストしたものだ。

 遠藤さちえさんは96年ベルマーレ平塚入社だが、まだ短大生だった95年の終わりにキャリアをスタートしている。サッカーの仕事がしたくて、思いつく限りのクラブに手紙を出したのだった。ベルマーレが拾ってくれた。仕事は「外国人の生活面のケア」担当だ。実はトニーニョ・モウラ監督就任が決まって、手が足りなくなりそうだった。上田栄治統括部長から電話をもらって「ポルトガル語しゃべれる?」と訊かれたとき、「しゃべれません」と言ったら終わってしまうと思って「絶対しゃべれるようになります!」と答えたそうだ。ナイス短大生! 嘘はついてない。

 チームの通訳をしていた「タケシさん」を紹介された。厳しい人だった。上田部長に「この子、今日から下につくから面倒見てあげて」と言われて、言下に「仕事に上も下もないです」と返す男だ。遠藤さんはチームのブラジル人の住所リストを渡された。「じゃ、自分はこれこれこういう役割で入ることになりましたって、今から挨拶してきて」。遠藤さんは唖然とする。ポルトガル語もできない。土地勘もない。運転免許も取りたてだった。リストだけを頼りにコーチ&選手6人の住まいを訪問しなきゃいけない。やるしかなかった。クルマで市街を右往左往し、訪ねた先の玄関口ではカタコトを身ぶり手ぶりで何とか補って、どうにか全員に挨拶を済ませ、夜遅くオフィスに戻った。「タケシさん」が帰らずにずっと待っていたそうだ。やる気が見たかったらしい。この「タケシさん」こそ現・新潟ブラジル担当スカウトの細貝剛さんだ。他クラブがうらやむ歴代ブラジル人選手を新潟に引いてきた凄腕だ。

 遠藤さんが振られた「ケア担当」という仕事は早い話、何でも屋だった。慣れない異国で生活するブラジル人のわからないこと、困ったことに何でも対応する。朝から晩までいつ電話がかかってくるかわからない。選手の奥さんや子どものケアも重要だった。選手は家庭に不安があるといいパフォーマンスを発揮できない。衣食住の全般、病院の付き添い、それから子どもの学校(しょっちゅう学校と連絡を取って、面談等にも立ち会ったそうだ)、やることはいくらでもあった。最初はとにかく親身になって何でも助けに行った。そのうちに気づいたのは何でもやってしまうのはよくないということだった。やりすぎるとサポートなしには日本で生活できなくなってしまう。なるべく自分でやれるようにやり方を教えてあげるのが大事だと思った。

 つまり、家族ぐるみのつき合いというか、もう家族の一員として奮闘しろといってるような業務なのだった。何しろ出産に立ち会ったり、手術に立ち会ったりするのだ。ポルトガル語は奥さんたちに教えられメキメキ上達した。ご家庭にお邪魔するからブラジルの家庭料理をよくご馳走になった。フェージョ(豆と肉の煮込み)の味は各家庭にレシピがあって微妙に異なるのだが、遠藤さんが今でもいちばん好きなのは「ロペの家のフェージョ」だ。

 「ロペ」(あるいは「ワグネル君」)ことロペス・ワグネル選手が本田技研から移籍してきたのは遠藤さんの入社3年目のことだ。ロペス選手は来日して10年、既に帰化を申請していた。日本語は読み書きも含めバッチリだ。遠藤さんは主に奥さんの担当にまわる。奥さんも帰化を目指して、猛勉強中だった。たぶん若い読者はイメージしづらいと思うのだが、当時のW杯予選をめぐる熱はハンパない。ロペスは帰化が通ればすぐ代表入りだろうと騒がれていた。

 「ロペスはとにかくジェントルマンじゃないですか。心根が優しいというか。奥さんもそうなんですよ。二人とも私がつき合ってきたなかで最高です。平塚に来てくれることになり、最初に家を探したんですが、なかなかいい家が見つからなくて、私としては納得いかなかったんですけど、二人でありがとう、いい家だ、ここにしますって何度もお礼を言ってくれて。世間で騒がれてるのにホントに謙虚っていうか、ぶらないんですよ。お子さんの幼稚園を探して、地元の幼稚園に通ったんですけど、帰化が通って日本代表入りした後に、幼稚園の運動会の場所取りに朝から並ぶんですよ。みんな驚きますよ。で、フツーに運動会のビデオ撮影してる(笑)。
 「当時のベルマーレはノブ(小島伸幸)さん、ロペス、ヒデ(中田英寿)、それから韓国代表のミョンボ(洪 明甫)さんと4人もW杯出場選手がいたんですよ。ロペスとヒデは性格が対照的でした。チームワークや協調性を重んじるロペスと、自己主張の強いヒデ。だけど究極のところで二人の言ってることは同じなんですよね。勝つために何が必要かをそれぞれの厳しさのなかで言ってるんです」(遠藤さん)

 遠藤さんは外国人選手にはなるべく日本や日本文化を好きになってもらいたかった。異国で成功する選手はほぼ例外なく殻にこもらず、オープンマインドなのだ。町内会や私設応援団の集まりに顔を出してもらって、日本人の友達をつくるように仕向けた。ロペスはそんなときも積極的だった。私設応援団の面々と本気でつき合う。

 「その私設応援団されてた方がさっそく(聖籠の)練習場へ行ったそうなんですね。で、一緒に食事をして帰られて。その後、会ったときにこないだ新潟へ行ってきたんだよとおっしゃって、その場でロペスに電話をかけてくれたんです。ぜんぜん変わらないロペスでした。元気だよ。日本語忘れてないよ。僕はチャンスをもらったんだ。こんな素晴らしいチャンスないよ。順位はきびしいけど、夢が叶ったんだ。全力でやるんだ。また会おうね。電話番号はこれこれだよ。懐かしい声でした」(同)

 遠藤さんとロペスの仕事のつき合いは1999年、メインスポンサーのフジタ撤退の大激震のなか終わりを告げる。遠藤さんは名古屋へ移籍するロペス一家との別れを覚えていないそうだ。主力選手のほとんどが流出し、クラブは倒産の危機に瀕していた。僕はベルマーレが残ったことは奇跡だと思う。それは歴史をつないだ真壁潔社長や遠藤さんらの奮闘のたまものであったし、地元サポーターの頑張りのおかげでもあった。

 遠藤さちえさんと呂比須ワグナーのサッカー人生はこうして別々の道をたどる。が、それは表面上のことだけだ。遠藤さんはサンパウロのロペス家に遊びに行ったこともある。ボールは丸いのだ。サッカーは続く。遠藤さんは地球の裏側にいても、新潟を率いても、ロペスはずっと「同じチーム、同じ家族」だと感じている。新しいチャレンジの成功を心から祈っている。


附記1、表題の「スア カーサ!」はポルトガル語で「ユア ホーム!(あなたの家よ)」という意味です。遠藤さんが顔を出すたび、ロペス夫人はそう言って迎えてくれたそうです。あなたは家族よ、くつろいで、というくらいの意味でしょうか。

2、僕はこの取材を通じて、なぜ呂比須さんが新潟の大ピンチに監督として迎えられたのかちょっとわかった気がします。それから吉田達磨さんが監督になる前、(新聞辞令とはいえ)曺 貴裁さんと洪 明甫さんが監督候補に名前が上がったのも合点がいきました。

3、さぁ、週末は大宮戦ですね。フライパンのゲーフラや旗がスタンドに出るんじゃないかな。頑張りましょう。いい試合にしましょう!
 

えのきどいちろう
1959/8/13生 秋田県出身。中央大学経済学部卒。コラムニスト。
大学時代に仲間と創刊した『中大パンチ』をきっかけに商業誌デビュー。以来、語りかけられるように書き出されるその文体で莫大な数の原稿を執筆し続ける。2002年日韓ワールドカップの開催前から開催期までスカイパーフェクTV!で連日放送された「ワールドカップジャーナル」のキャスターを務め、台本なしの生放送でサッカーを語り続け、その姿を日本中のサッカーファンが見守った。
アルビレックス新潟サポータースソングCD(2004年版)に掲載されたコラム「沼垂白山」や、msnでの当時の反町監督インタビューコラムなど、まさにサポーターと一緒の立ち位置で、見て、感じて、書いた文章はサポーターに多くの共感を得た。
著書に「サッカー茶柱観測所」(週刊サッカーマガジン連載)。 新潟日報で隔週火曜日に連載されている「新潟レッツゴー!」も好評を博している。
HC日光アイスバックスチームディレクターでもある。

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