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2017.11.16スペシャル
【コラム】えのきどいちろうのアルビレックス散歩道 第355回
 「牛木素吉郎氏を訪ねて」

 Jリーグ日程のブレーク期間、当コラムは恒例のフリーテーマ回である。秋晴れの一日、新国立競技場建設中の巨大クレーンが立ち並ぶ様を横に見て、渋谷区千駄ヶ谷のマンションの一角、サクセスブック社を目指した。サッカージャーナリスト、牛木素吉郎さんにお会いするためだ。牛木さんは1932年6月12日生まれの現在85歳、新潟県中頸城郡(現・上越市)出身の大先達である。

 直近のブラジル大会を含め、ワールドカップを12大会連続で取材されている。2002年日韓大会の際は故郷新潟への会場誘致に尽力し、ワールドカップ新潟県準備委員会の常任委員を務められた。『サッカーマガジン』誌上では1966年創刊号から「フリーキック」「ビバ!サッカー」等の時評コラムで様々な提言を続けられ、1994年にミズノ・スポーツライター賞を受賞。2011年にはサッカー界への多大な貢献が認められ、サッカー殿堂入りを果たしておられる。言わば日本サッカー、そして新潟サッカーの羅針盤のような方だ。チャンスがあればぜひお会いし、話をうかがいたいと思っていた。

 まず牛木さんのプレーヤー歴から。牛木さんは戦争中は朝鮮で暮らし、終戦に伴って12歳で帰国された。親戚を頼って一家で中頸城郡津有村に転居する。サッカーを始めたのは旧制新潟中学校(現在の新潟高校)であった。

 「戦争が終わったら野球部はすぐ復活です。サッカー部はないですよ。僕自身はボールの蹴り方を知らなかったというのじゃなしにサッカーっていうスポーツ、当時は蹴球って言ったんですが、サッカーっていうスポーツがあるっていうこと自体を知らない。それぐらいサッカーは普及してなかった。それは地方によって差があるんですよね。例えば静岡とか広島は非常に盛んで、新潟という土地ではほとんど知られていない。で、どうしてサッカーというスポーツを知ったかというと、青島から引き揚げてきた花井という学生が外地でサッカーをやってて、新潟中学にサッカー部をつくったんですが、黒板に図を描いて説明して、僕らはそれを見て学んだんです。中等学校のレベルではそれが新潟のサッカーの始まりですよ」(牛木さん、以下同じ)

 つまり、牛木さんは新潟高校サッカー部の創設メンバーであり、かつ県内で最も早い時期にサッカーをプレーしたひとりだったと言える。ちなみにどこと試合したのかうかがったら「柏崎中学に同じぐらいの時期にサッカー部ができた」とのことだった。当時の名称でいう「高田中学校柏崎分校」(現在の柏崎高校)だ。まことに興味深い。

 その後、東大に進学されてア式蹴球部に在籍、当時の最新サッカー技術・戦術に触れる。主将は浅見俊雄(後に東大監督&名誉教授)、2学年上に岡野俊一郎(後に日本代表監督、日本サッカー協会会長、IOC委員)がいた。もっとも留年続きの岡野さんには学年が追いついてしまったそうだ(岡野さんはご実家の上野「岡埜栄泉」を継ぐつもりで、確信犯的に就職を回避し大好きなサッカーをやっていた)。1956年、東京新聞に入社、1959年、読売新聞へ移る。以来、1992年退社されるまで運動部記者、編集委員として第一線で活躍される。

 僕が牛木さんを知ったのは『サッカーマガジン』の連載「ビバ!サッカー」を通じてだ。これは本邦サッカー時評のパイオニアにして最高峰といっていい。その博識ぶり、先見性、愛情、機知は並外れたものだった。また練達の筆で実にわかりやすい文章を書かれるのだ。牛木さんの先見性を語るとき、よく引き合いに出されるのが1967年8月号の「ワールドカップを日本でやろう/日本開催は19年後だ」の記事だ。ぶっ飛んでる。日本代表はやっと翌1968年にメキシコ五輪で銅メダルを獲るのだ。ワールドカップなんて夢のまた夢、そもそも知ってる人のほうが少ないくらいの状況だ。アドバルーンを上げるにもほどがある。だが、そのアドバルーンは当時のサッカー関係者のみならず、読者のサッカー少年たちに強烈な印象を残した。実際には19年後でなく35年後、日本開催でなく日韓共催であったが、牛木さんの提言は現実のものとなる。

 「当時、日本はオリンピックを開催する力があった。オリンピックは30何種目あるわけですよ。ワールドカップはサッカー1種目です。ワールドカップやるのはそんなに難しくない。競技場もあるし、人材もあるわけですよ。ただ足りないのはサッカーが盛んでないことだった。でも、ワールドカップやることによってサッカー盛んにすることだってできるわけですよ。だから、そんなに難しい話じゃない。当然できると思ってました」

 「新潟で中高と同級生で、サッカー部のキャプテンだった大川周って男が、東京の僕のところに電話してきて、頼みがあるっていうわけですよ。大川は新潟県のサッカー協会の理事長をやってました。当時、サッカー協会がワールドカップのグループ予選の試合をやるとこを公募したんです。確か僕の記憶では全国で9都市だったと思うけど立候補して、争いになった。新潟に誘致したいから協力してくれって。もちろん新潟はサッカーが盛んではないから、9都市が立候補したなかで有力じゃないわけですよ。それで僕は大川に頼まれたから、当時のサッカー協会のお偉方のところをまわって頼んで歩いた。そのとき言ったのはね、日本海側でもやるべきだ。他が太平洋側ばっかりだったから、日本海側でもやるべきだってことで押したんです」

 だから牛木さんの書かれたものに直接触れてない世代も、牛木さんに足を向けては寝られないのだ。アルビレックス新潟の成功には、ワールドカップ新潟開催の熱気が少なからず作用している。相乗効果のように新潟サッカーは爆発的に発展した。そこに牛木素吉郎氏の存在は欠かせないものであった。

 では、県内で最初期からサッカーをプレーし、長じて記者として世界のサッカーを伝え、ワールドカップ誘致にも尽力された牛木さんには「新潟らしさ」はどう映るのだろうか? 僕はこの質問が投げたかった。思えば牛木さんほどサッカーにおける「新潟らしさ」を語ってもらうに適した方はいないと思う。牛木さんの考える「新潟らしさ」って一体、何だろう? 


附記1、次週、「牛木素吉郎氏を訪ねて2」に続きます。牛木さんの取材は緊張しました。とてつもなくシャープで、かつ言葉に力があるんだ。何かこう、インタビューというより稽古をつけてもらう感じだったなぁ。もちろんライターとして生涯の喜びです。

2、今週は筑波大のMF戸嶋祥郎選手の入団内定がリリースされましたね。既にアルビ入りが発表されてる流経大の渡邉新太選手共々、これはインカレで見るのが楽しみになりました。

3、昨日、浅草演芸ホールの夜席で三遊亭白鳥さんを見たんですけど、白鳥さんはビッグスワンでオープニングアクトとかキックインとか、やったことないんですよね? もったいないなぁ。上越市出身、高田高校ですよ。もう名前といい、あのジャージみたいな着物といい、すべてがしっくり来るんですけどね。

4、単行本『アルビレックス散歩道2016/オレンジの花』、印刷所にまわりました。


えのきどいちろう
1959/8/13生 秋田県出身。中央大学経済学部卒。コラムニスト。
大学時代に仲間と創刊した『中大パンチ』をきっかけに商業誌デビュー。以来、語りかけられるように書き出されるその文体で莫大な数の原稿を執筆し続ける。2002年日韓ワールドカップの開催前から開催期までスカイパーフェクTV!で連日放送された「ワールドカップジャーナル」のキャスターを務め、台本なしの生放送でサッカーを語り続け、その姿を日本中のサッカーファンが見守った。
アルビレックス新潟サポータースソングCD(2004年版)に掲載されたコラム「沼垂白山」や、msnでの当時の反町監督インタビューコラムなど、まさにサポーターと一緒の立ち位置で、見て、感じて、書いた文章はサポーターに多くの共感を得た。
著書に「サッカー茶柱観測所」(週刊サッカーマガジン連載)。 新潟日報で隔週火曜日に連載されている「新潟レッツゴー!」も好評を博している。
HC日光アイスバックスチームディレクターでもある。

アルビレックス新潟からのお知らせコラム「えのきどいちろうのアルビレックス散歩道」は、アルビレックス新潟公式サイト『モバイルアルビレックス』で、先行展開をさせていただいております。更新は公式携帯サイトで毎週木曜日に掲載した内容を、翌週木曜日に公式PCサイトで掲載するスケジュールとなります。えのきどさんがサポーターと同じ目線で見て、感じた等身大のコラムは、試合の感動がさめる前に、ぜひ公式携帯サイトでご覧ください!

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