【コラム】えのきどいちろうのアルビレックス散歩道 第17回

2009/7/9
「俺たちと共に戦おう」

 J1第15節、新潟×名古屋。クラブ史のなかでも重要な試合になった。矢野貴章の契約が6月いっぱいで切れるのだ。そして、これが6月最後の試合だ。報道によると本人は欧州挑戦を希望しているという。もしかすると見納めになるかも知れない。

 矢野貴章には、皆、思い入れがある。柏から移籍してきたけれど、新潟で、皆の前で成長し、本物になった選手だ。又、「日本代表がW杯出場を決めた瞬間、ピッチに立っていた初めてのアルビレックス新潟所属の選手」でもある。決して器用ではないが、惜しみなくピッチを動きまわる。前を向いて、持ち上がるときの迫力は出色だ。

 サポーターの胸中は複雑だった。もちろん、行って欲しくない。今年のチームは矢野の持ち味を前提に出来上がったものだ。リーグ戦を2位と大健闘している。どこまで行けるのか見てみたい。そして矢野がどこまで凄くなるのか目撃したい。

 その一方で気持ちよく送り出してやりたいとも思う。一度しかない人生、矢野は挑戦すべきだろう。欧州で揉まれて、更に逞しいプレーヤーに成長するのを楽しみにしている部分もある。

 どうしたらいいかわからないまま、サポーターはとにかくビッグスワンに集結した。彼の名を呼んだ。それは「行かないでくれ」でもあるし、「ありがとう」でもあるような感情だ。せっぱつまったものだ。キショー! キショー! もしかすると、たった今、最後の勇姿を見ているのかも知れない選手の名を呼ぶ。

 これで矢野貴章が決勝ゴールでも決めていれば、映画のような幕切れだったろう。あくまで想像だけど、場内がコールに包まれて異様なムードになった気がする。それはまるで別れの場面だ。矢野選手もうっかり「この土地で出来ることは全てやり切った」と思ったかも知れない。
 
 ところが(読者も御存知の通り)、サッカーの神様はそんな一筋縄でいく御方ではない。不思議な試合を用意した。「マギヌンが戻って上向きの名古屋」からマギヌンを消す。新潟のチームとしての魅力を際立たせる。ペドロは切れ、大島は頼り甲斐があり、松下は闘魂があり、マルシオは完璧だ。このチームを捨てられるか? この奇跡のようなチームでもっとやりたくないか?

 ヒーローは2得点の松下だった。矢野は欠場した永田の分までクリアに奔走し、勝利に貢献した。が、自分が決められるところもあった。敵陣を駆け上がるときの歓声が耳に残る。納得がいかない。納得して旅立つのならどんなにいいだろう。決めたかった。試合前、ゴール裏が「11」番の人文字を作ってくれた。

 これはファンタジーに類することだ。サッカー選手とクラブの関係は本来、契約にのっとったビジネスである。移籍をネガティブにとらえる必要はない。
 だけど第15節、名古屋戦、たぶんスタンドのサポーターと矢野貴章は、同じ感情の振幅を経験した。心は揺れて、試合の90分間だけそれを忘れられた。僕は「真心」という月並みだけど、ずっしり来る言葉を思い出す。

 そして矢野貴章はチームに残る道を選択したのだ。驚くべきことだ。欧州の移籍シーズンに合わせて、6月満了の契約にした既定路線をひっくり返した。世の中には「こんなことが起きたら最高しびれるんだけどなぁ」ってことがある。それが起きた。
 俺たちと共に戦おう。
 サポーターの声が届いていたのだ。


えのきどいちろう
1959/8/13生 秋田県出身。中央大学経済学部卒。コラムニスト。
大学時代に仲間と創刊した『中大パンチ』をきっかけに商業誌デビュー。以来、語りかけられるように書き出されるその文体で莫大な数の原稿を執筆し続ける。2002年日韓ワールドカップの開催前から開催期までスカイパーフェクTV!で連日放送された「ワールドカップジャーナル」のキャスターを務め、台本なしの生放送でサッカーを語り続け、その姿を日本中のサッカーファンが見守った。
アルビレックス新潟サポータースソングCD(2004年版)に掲載されたコラム「沼垂白山」や、msnでの当時の反町監督インタビューコラムなど、まさにサポーターと一緒の立ち位置で、見て、感じて、書いた文章はサポーターに多くの共感を得た。
著書に「サッカー茶柱観測所」(週刊サッカーマガジン連載)。
HC日光アイスバックスチームディレクターでもある。

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