【サッカーのチカラ 〜いま僕にできること、僕たちにできること(本間勲選手インタビュー・前編)〜】

2011/3/24
このたびの東北太平洋沖地震をはじめとする震災の被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。アルビレックス新潟公式携帯サイト「モバイルアルビレックス」では、今回の震災を受けて、2004年(新潟県中越地震)、2007年(新潟県中越沖地震)と二度の震災を経験した本間勲選手に、「サッカーのチカラ 〜いま僕にできること、僕たちにできること」ととしてインタビューを行いました。過去の震災で、選手たちはどのような心境で日々を過ごし、ピッチに立ったか。今回の震災で、今後のトレーニングや試合にどのような気持ちで臨もうとしているかなどを語ってもらっています。

今回は公式ホームページでも、このインタビューを特別公開させていただきます。


■Jリーグの中断について

「さすがにサッカーをやれる状況ではないですからね。日本という国自体が、プロのサッカーリーグをやるよりも、もっとやるべきことがたくさんある状況だと思います。今回の被害の大きさを考えても。だからリーグが中断されたというのは、正しい判断じゃないでしょうか」

■充実したキャンプを経て、シーズン開幕の福岡戦には快勝。中断した時点で、チーム状態は非常に良いものがありました

「確かにチームの状態としては、キャンプをずっとやってきて、徐々にチームとしての仕上がり具合は良くなっていました。開幕をいい形で勝利できて、これからホームで試合できる、もっともっと良くなっていくという段階だったかな、とは思います。

福岡戦で良かったところは、新しい選手がなじんできたことを試合の内容と結果で示せたことですね。彼らが、チームがやりたいことを理解してプレーでき始めている証拠だと思うし、逆に今までいた選手たちも新しい選手たちの特徴をつかんで、彼らを生かし始めている証拠だとも思います。

しっかり3ゴールを決めて勝てたことは、本当に自信になりますね。ディフェンス面でも、去年から先発メンバーが入れ替わる中で、試合の途中で(鈴木)大輔が入ってきて大きくポジション変更をしつつ完封できたところに、コンビネーションがしっかり取れていることが感じられました。攻めも守りも、キャンプからやってきたことを出せたかな、と。試合を重ねていくことで、もっともっとよくなっていくだろうと思っていたところで、東北関東大震災が起こりました」

■3月11日、地震が起きたときは、新潟市内もかなり長い時間、揺れ続けました

「練習が終わって、家に戻って、ご飯も食べて。ちょっと昼寝でもしようかな、と思っていたときでした。子供も眠そうにしていたので。そうしたら揺れ始めて、強い揺れではなかったけど、長くて驚きました。

やっと収まったと思ってテレビをつけたら大変なことになっていたので、眠気も吹っ飛びました。子供は揺れが収まったら、すぐに寝てしまいましたが……(苦笑)。僕はずっとテレビを見ていましたね。

時間がたつにつれて被害の大きさがさらに分かってきて、『明日の山形戦、どうなるのかな?』と思っていたところに、試合が中止になったという連絡が入ってきました」

■今回の地震の後、被災地の知人への連絡は

「なかなか連絡は付かなかったんですが、自分の知り合いは大丈夫でした。でも、『だから良かった』と言うわけにはいきませんよね、これだけの被害を考えると。仙台ではサッカーができる状況じゃないので、中原(貴之選手、06年新潟でプレー)もワン(松下年宏選手、06〜09年新潟でプレー)ちゃんも、いったん別の場所に移って、活動再開に備えているようです。

ただ昔、新潟で一緒にプレーした千葉っていう選手が仙台にいるんですけど(千葉真也さん、02年新潟でプレー)、彼の住んでいるあたりは本当に被害がひどいらしくて。『津波が家の目の前まで来た』って話してました。それでも彼の家は大丈夫だったので、今はそこで生活しているそうです。電気も数日前に復旧したし、必要最低限のものは手に入るということで。

それでもガソリンがないのが、やっぱり一番、苦労するそうです。食料も足りないし。新潟に避難することも考えたらしいんです。地震の時点で車に新潟に来れるくらいのガソリンは入っていて。でも当然、高速は通れないし、一般の道を走って渋滞に巻き込まれてガソリンがなくなったら立ち往生してしまうだろうから、とりあえず仙台の家にいることにしたそうです。こちらから、いろいろ物資を送りたいんですけど……。今の時点では個人的に送ることはできませんからね」

■新潟というチーム、土地も、この10年で何度も地震災害に遭ってきました。特に2004年の新潟県中越地震のときは、しばらくビッグスワンでのホームゲームが開催できなくなるなど、大きな影響を受けました

「あのとき、チームは遠征で磐田に行っていたんですよね。でも自分は警告の累積で出場停止になっていて、新潟に残っていました。新潟で感じた揺れ方としては、今回よりも大きかったんじゃないかな。すごく怖かったです。

チームはすぐには戻って来れなかったんですけど、2、3日後に東京から飛行機が飛ぶようになって、それでみんな戻ってきました。聖籠のグラウンドは被害がなくて、サッカーをやる場所と環境があった。それで練習をし、試合に臨んでいたんですが、気持ちの上ではとても難しい部分がありましたね。同じ県内に大きな被害を受けて、苦しい生活をされているみなさんがたくさんいる中で、サッカーをやっている場合なのかな、と。

それでも僕らにできることは何か考えたとき、同じ県内でサッカーでがんばっている姿を見せることが大事だと思いました。試合で結果を出して、被災されたみなさんにも元気を届けられたら、という思いでしたね。それでチーム全員、サッカーに取り組んでいました。

もちろん今回、仙台や鹿島、水戸の状況は自分たちととても比べることはできません。自分たちはサッカーができる環境が継続できていた分、とても幸せだったと思います」

-後編に続く-


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