【コラム】えのきどいちろうのアルビレックス散歩道 第156回
2012/11/15
「伝説のサポバス」
今週は申し訳ない、第31節・清水戦を扱わないことにする。従来でもミッドウィーク開催は余裕がなかったのだが、目下、僕は水曜夜、TBSラジオで生番組をやっている。とてもじゃないが、録画を見て、考えをまとめて原稿に仕上げるには時間が足りない。幸い今週末は試合がないので、清水戦詳細は次週の取り扱いとする。というわけでテーマフリーだ。今週は何を書いてもいいことになった。
が、実は書くことは決めてあった。前々からいつか大嶋さんのことをとり上げたいと思っていた。大嶋康裕さん(40歳)は栃木県日光市で『コスモス』という家族経営のレストランをやっている。僕が日光アイスバックスの地域プロモーションで動いていたとき、今市青年会議所の縁で知り合った人だ。会ったとき、セルジオ越後さんについて、手塚聡氏(地元・今市出身の名選手。引退後は草津、岡山等で監督を務められた)とフジタ工業にからめた秀逸な紹介記事を用意していて、「むむ、この男、タダモノではない!」と思ったのである。サッカー史に詳しくて原稿が書ける。文章に熱もある。原稿に写真をレイアウトして、あれは印刷してあったのかなコピーかな、とにかく配布する行動力がすごい。
「あなたは何者ですか?」と尋ねたら「アルビレックス新潟のサポーターをやっていた」と即答が返る。それも超アクティブというべき層のようだ。10代で地元を離れ、転々とした後、新潟・古町でバーを経営していたらしい。アルビレックス新潟には地域リーグの頃、出会って、J1昇格を決めた年、30歳で地元へ帰る決断をするまでバリバリに応援する。僕はなるほどなぁという感じだ。まだ当コラムは始まってなかった。そうだ、お会いしてだいぶ経って、『コスモス』でクリームコロッケ食べたついでに「今度、アルビ公式のウェブ連載始めることになったんですよ」と報告したんだった。「え、本当ですか?」と大嶋さん、相当びっくりしてた。
で、この大嶋さんが「おーちゃん」と呼ばれる重要人物だったとわかったのは、当コラムが次第に軌道にのってサポーターとのつき合いができてからだ。古手のコアサポはみんな名前を出してくる。僕としたら自分の目に狂いはなかったという感じだ。そうか、あの人が伝説のサポバスを出した「おーちゃん」か。いつかテーマフリーの週、「おーちゃん」のコラムを書こう。もしかすると「おーちゃん」は例えばグレイシー柔術が戦後、講道館柔道が失くしたものを保持していたように、今、新潟サポがとり戻すべき何かをフリーズドライして持ってる可能性がある。
「最初は北信越リーグでしたね。その次のJFLは98年の1年しかいなかったから、初めて見たのは97年頃ですかね。たまたま告知を見て、何となく見てみようかなと思って市陸へ行ったんですよね。缶ビール持ってメインスタンドで寝そべって見る感じですよ。当時はお客さん、3、4百人じゃないですか。のんびりしてました。だけど、ゴール裏にはもう『ktmr』君とかいたんですよ。熱いのがいるんだなぁと面白くなって、2回めはサッカー見るっていうより人を楽しみに行きました」
大嶋さんは古町でバーを経営していた。最初の店名は『ベリー』、後に『ガルテン』(ドイツ語で庭の意。英語だったらガーデンですね)に名前を変える。インターネットが普及していない90年代、「場を張ってる」意味は大きかった。サポどうしの交流がスタジアムだけでなく、お店に持ち込まれるようになる。「じじぃ」さんというサポがひょっこり店に来た。その流れが最終的に「反町康治監督」「田村貢広報」(ともに役職は当時)がひょっこり顔を出すところまで続いていく。
「僕はそんな熱いサポーターでもなかったんです。独身だったんで女の子を誘うダシにしてた感じもある。ちなみに今のカミさんですけど…。だから、だんだんですね。だんだんサポーターの知り合いができて、そこにいる人が気に入った感覚です。ぜんぜん、応援で勝たせようなんておこがましい意識なかったですよ(笑)」
とはいえ大嶋さんはアルビにハマっていく。どうも転回点は「アウェー観戦」であったようだ。「アウェー観戦」は濃密な体験だ。で、行けば行くほど敷居が低くなっていく。次第に大嶋さんは「アウェー全部行く」がフツーになっていく。見知らぬ土地の旅情。僕も覚えがあるが、サッカーは考えられない場所へ自分を連れていく。人数が少ないから応援のしがいもある(厚別の札幌戦でたった3人で跳ねたこともある)。他サポとのつき合いもできた。太鼓のバチを忘れて、相手ゴール裏まで借りに行ったりもした。
「大冒険? そうですね、チームとともに大冒険を始めた感じですかね。当時は20代の中頃です。僕は10代の頃、斜に構えたところがあったんで、あの頃のほうがまっしぐらですね。チームもどんどん上へ行く。僕らも行く。どこまで行くのかわからない。99年00年になると、パソコンで新聞作ってました。マッチデー・プログラムみたいなカンタンなやつ。そういうことするのが楽しくてしょうがなかったんですよ」
そして大嶋さんは「伝説のサポバス」を走らせる。01年の1年間だ。きっかけはいつものようにアウェーへ行こうとして、レンタカーに分乗しようとしたら人数が17人とか、「人数は多いけどうまく割れない数」だったらしい。誰かが「バス借りちゃおうよ」と言い出した。それはすごいけど実現性あるのか? そうしたら中越交通がバス代を安くしてくれることになった。記念すべき第1回のサポバスツアーは5月27日の第14節・仙台戦だ。第3回まで赤字が続いた。店の常連だった新潟日報や日刊スポーツの記者さんが見かねて無料でツアー告知をしてくれる。
「だからネットじゃなくて新聞告知です。問い合わせ先も店の電話番号。これがどんどん規模が大きくなって、もう電話がかかりすぎて機能しなくなった。最初は中越交通さん一社だったんですが、足りなくなって10月のアウェー仙台(第36節)はバス4台、全部違う会社で行きました。もう、つぎはぎだらけみたいなバスツアーです。僕は勢いでやってただけで、ぜんぜんそんな経験なかったですからね、不安だらけでした。どこかで誰か積み残してきちゃったらどうしようか。点呼とかするんですけど、見よう見真似ですからね」
01年シーズンが終了したある日、店にアルビの中野幸夫さんと新潟交通の方が見えて「今までありがとうございます。これからはこちらでやらせて下さい」と言ったとき、大嶋さんは正直ホッとしたそうだ。ノウハウなく始めたことなので、人数も見込みで発注してけっこう赤字を食っていた。赤字は自腹でかぶっていた。それに責任が大きすぎた。自然発生的なサポバスが、オフィシャルの応援バスツアーに引き継がれた瞬間だ。明けて翌年、大嶋さんは新潟で知り合った女性と結婚式を挙げた。乾杯の御発声は中野幸夫さんだった。
大嶋さんが新潟を離れたのは03年の春、最後に見たのは第2節・ホーム福岡戦だ。大嶋さんは第二の故郷とつらい別れをする。何しろコアサポとして新潟発のテレビ、ラジオにじゃんじゃん出演していたような人だ。栃木へ帰るのはよくよくの決心だったと思う。いちばん思い出に残ってる試合はやっぱり「昇格を逃した02年、第43節の長居・セレッソ戦」。皆、現地で泣いたんだけど、夜の飲み会では「不思議にハダカになる奴が出たり、はしゃいでましたね。つらいのを見せないようにしてたんだと思います」。それはそういうものかもしれない。注意してほしいのは大嶋さんがJ1昇格の歓喜の瞬間、郷里の栃木にいたことだ。遠くで愛するチームの快挙をかみ締めていた。
取材の最後、今のサポーターにメッセージをもらった。栃木県日光市で大嶋さんもアルビの降格危機に胸を痛めている。「おーちゃん」の声を届けたい。
「僕みたいに遠ざかってる人間が言うことじゃないんですけど、もう、J2に落ちたら落ちたで決まってから考えればいいことなので、今は、声出してる人間はもうちょっとだけ大きな声を出して、あと5センチ高く跳んで、チームも味方どうしも鼓舞してほしいです。僕らはそういうことしかできなかったんで。つらいときだから声を出して、高く跳んで、元気出して行こうと。それがアルビですよね。ぎりぎりの状況もめいっぱい楽しんでほしいです」
附記1、で、31節・清水戦ですけど勝ちましたねー! 番組終わってケータイ起こしたら知人サポからメールが殺到してた。やったー! きっと日光で「おーちゃん」もガッツポーズです。
2、先週のコラムをアップしてから、渡辺泰広選手負傷の報に接し大変残念に思ってました。一日も早い回復を祈ります。
3、今週の本文中、「グレイシー柔術が戦後、講道館柔道が失くしたものを保持していたように」の箇所は完全に今、読んでる『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也・著、新潮社)の影響です。これは分厚い本だけど、抜群に面白い。格闘技ノンフィクションとしては珍しく大宅賞に輝いたのも納得です。よかったらご一読を!
えのきどいちろう
1959/8/13生 秋田県出身。中央大学経済学部卒。コラムニスト。
大学時代に仲間と創刊した『中大パンチ』をきっかけに商業誌デビュー。以来、語りかけられるように書き出されるその文体で莫大な数の原稿を執筆し続ける。2002年日韓ワールドカップの開催前から開催期までスカイパーフェクTV!で連日放送された「ワールドカップジャーナル」のキャスターを務め、台本なしの生放送でサッカーを語り続け、その姿を日本中のサッカーファンが見守った。
アルビレックス新潟サポータースソングCD(2004年版)に掲載されたコラム「沼垂白山」や、msnでの当時の反町監督インタビューコラムなど、まさにサポーターと一緒の立ち位置で、見て、感じて、書いた文章はサポーターに多くの共感を得た。
著書に「サッカー茶柱観測所」(週刊サッカーマガジン連載)。
HC日光アイスバックスチームディレクターでもある。
アルビレックス新潟からのお知らせコラム「えのきどいちろうのアルビレックス散歩道」は、アルビレックス新潟公式サイト『モバイルアルビレックス』で、先行展開をさせていただいております。更新は公式携帯サイトで毎週木曜日に掲載した内容を、翌週木曜日に公式PCサイトで掲載するスケジュールとなります。えのきどさんがサポーターと同じ目線で見て、感じた等身大のコラムは、試合の感動が覚める前に、ぜひ公式携帯サイトでご覧ください!
今週は申し訳ない、第31節・清水戦を扱わないことにする。従来でもミッドウィーク開催は余裕がなかったのだが、目下、僕は水曜夜、TBSラジオで生番組をやっている。とてもじゃないが、録画を見て、考えをまとめて原稿に仕上げるには時間が足りない。幸い今週末は試合がないので、清水戦詳細は次週の取り扱いとする。というわけでテーマフリーだ。今週は何を書いてもいいことになった。
が、実は書くことは決めてあった。前々からいつか大嶋さんのことをとり上げたいと思っていた。大嶋康裕さん(40歳)は栃木県日光市で『コスモス』という家族経営のレストランをやっている。僕が日光アイスバックスの地域プロモーションで動いていたとき、今市青年会議所の縁で知り合った人だ。会ったとき、セルジオ越後さんについて、手塚聡氏(地元・今市出身の名選手。引退後は草津、岡山等で監督を務められた)とフジタ工業にからめた秀逸な紹介記事を用意していて、「むむ、この男、タダモノではない!」と思ったのである。サッカー史に詳しくて原稿が書ける。文章に熱もある。原稿に写真をレイアウトして、あれは印刷してあったのかなコピーかな、とにかく配布する行動力がすごい。
「あなたは何者ですか?」と尋ねたら「アルビレックス新潟のサポーターをやっていた」と即答が返る。それも超アクティブというべき層のようだ。10代で地元を離れ、転々とした後、新潟・古町でバーを経営していたらしい。アルビレックス新潟には地域リーグの頃、出会って、J1昇格を決めた年、30歳で地元へ帰る決断をするまでバリバリに応援する。僕はなるほどなぁという感じだ。まだ当コラムは始まってなかった。そうだ、お会いしてだいぶ経って、『コスモス』でクリームコロッケ食べたついでに「今度、アルビ公式のウェブ連載始めることになったんですよ」と報告したんだった。「え、本当ですか?」と大嶋さん、相当びっくりしてた。
で、この大嶋さんが「おーちゃん」と呼ばれる重要人物だったとわかったのは、当コラムが次第に軌道にのってサポーターとのつき合いができてからだ。古手のコアサポはみんな名前を出してくる。僕としたら自分の目に狂いはなかったという感じだ。そうか、あの人が伝説のサポバスを出した「おーちゃん」か。いつかテーマフリーの週、「おーちゃん」のコラムを書こう。もしかすると「おーちゃん」は例えばグレイシー柔術が戦後、講道館柔道が失くしたものを保持していたように、今、新潟サポがとり戻すべき何かをフリーズドライして持ってる可能性がある。
「最初は北信越リーグでしたね。その次のJFLは98年の1年しかいなかったから、初めて見たのは97年頃ですかね。たまたま告知を見て、何となく見てみようかなと思って市陸へ行ったんですよね。缶ビール持ってメインスタンドで寝そべって見る感じですよ。当時はお客さん、3、4百人じゃないですか。のんびりしてました。だけど、ゴール裏にはもう『ktmr』君とかいたんですよ。熱いのがいるんだなぁと面白くなって、2回めはサッカー見るっていうより人を楽しみに行きました」
大嶋さんは古町でバーを経営していた。最初の店名は『ベリー』、後に『ガルテン』(ドイツ語で庭の意。英語だったらガーデンですね)に名前を変える。インターネットが普及していない90年代、「場を張ってる」意味は大きかった。サポどうしの交流がスタジアムだけでなく、お店に持ち込まれるようになる。「じじぃ」さんというサポがひょっこり店に来た。その流れが最終的に「反町康治監督」「田村貢広報」(ともに役職は当時)がひょっこり顔を出すところまで続いていく。
「僕はそんな熱いサポーターでもなかったんです。独身だったんで女の子を誘うダシにしてた感じもある。ちなみに今のカミさんですけど…。だから、だんだんですね。だんだんサポーターの知り合いができて、そこにいる人が気に入った感覚です。ぜんぜん、応援で勝たせようなんておこがましい意識なかったですよ(笑)」
とはいえ大嶋さんはアルビにハマっていく。どうも転回点は「アウェー観戦」であったようだ。「アウェー観戦」は濃密な体験だ。で、行けば行くほど敷居が低くなっていく。次第に大嶋さんは「アウェー全部行く」がフツーになっていく。見知らぬ土地の旅情。僕も覚えがあるが、サッカーは考えられない場所へ自分を連れていく。人数が少ないから応援のしがいもある(厚別の札幌戦でたった3人で跳ねたこともある)。他サポとのつき合いもできた。太鼓のバチを忘れて、相手ゴール裏まで借りに行ったりもした。
「大冒険? そうですね、チームとともに大冒険を始めた感じですかね。当時は20代の中頃です。僕は10代の頃、斜に構えたところがあったんで、あの頃のほうがまっしぐらですね。チームもどんどん上へ行く。僕らも行く。どこまで行くのかわからない。99年00年になると、パソコンで新聞作ってました。マッチデー・プログラムみたいなカンタンなやつ。そういうことするのが楽しくてしょうがなかったんですよ」
そして大嶋さんは「伝説のサポバス」を走らせる。01年の1年間だ。きっかけはいつものようにアウェーへ行こうとして、レンタカーに分乗しようとしたら人数が17人とか、「人数は多いけどうまく割れない数」だったらしい。誰かが「バス借りちゃおうよ」と言い出した。それはすごいけど実現性あるのか? そうしたら中越交通がバス代を安くしてくれることになった。記念すべき第1回のサポバスツアーは5月27日の第14節・仙台戦だ。第3回まで赤字が続いた。店の常連だった新潟日報や日刊スポーツの記者さんが見かねて無料でツアー告知をしてくれる。
「だからネットじゃなくて新聞告知です。問い合わせ先も店の電話番号。これがどんどん規模が大きくなって、もう電話がかかりすぎて機能しなくなった。最初は中越交通さん一社だったんですが、足りなくなって10月のアウェー仙台(第36節)はバス4台、全部違う会社で行きました。もう、つぎはぎだらけみたいなバスツアーです。僕は勢いでやってただけで、ぜんぜんそんな経験なかったですからね、不安だらけでした。どこかで誰か積み残してきちゃったらどうしようか。点呼とかするんですけど、見よう見真似ですからね」
01年シーズンが終了したある日、店にアルビの中野幸夫さんと新潟交通の方が見えて「今までありがとうございます。これからはこちらでやらせて下さい」と言ったとき、大嶋さんは正直ホッとしたそうだ。ノウハウなく始めたことなので、人数も見込みで発注してけっこう赤字を食っていた。赤字は自腹でかぶっていた。それに責任が大きすぎた。自然発生的なサポバスが、オフィシャルの応援バスツアーに引き継がれた瞬間だ。明けて翌年、大嶋さんは新潟で知り合った女性と結婚式を挙げた。乾杯の御発声は中野幸夫さんだった。
大嶋さんが新潟を離れたのは03年の春、最後に見たのは第2節・ホーム福岡戦だ。大嶋さんは第二の故郷とつらい別れをする。何しろコアサポとして新潟発のテレビ、ラジオにじゃんじゃん出演していたような人だ。栃木へ帰るのはよくよくの決心だったと思う。いちばん思い出に残ってる試合はやっぱり「昇格を逃した02年、第43節の長居・セレッソ戦」。皆、現地で泣いたんだけど、夜の飲み会では「不思議にハダカになる奴が出たり、はしゃいでましたね。つらいのを見せないようにしてたんだと思います」。それはそういうものかもしれない。注意してほしいのは大嶋さんがJ1昇格の歓喜の瞬間、郷里の栃木にいたことだ。遠くで愛するチームの快挙をかみ締めていた。
取材の最後、今のサポーターにメッセージをもらった。栃木県日光市で大嶋さんもアルビの降格危機に胸を痛めている。「おーちゃん」の声を届けたい。
「僕みたいに遠ざかってる人間が言うことじゃないんですけど、もう、J2に落ちたら落ちたで決まってから考えればいいことなので、今は、声出してる人間はもうちょっとだけ大きな声を出して、あと5センチ高く跳んで、チームも味方どうしも鼓舞してほしいです。僕らはそういうことしかできなかったんで。つらいときだから声を出して、高く跳んで、元気出して行こうと。それがアルビですよね。ぎりぎりの状況もめいっぱい楽しんでほしいです」
附記1、で、31節・清水戦ですけど勝ちましたねー! 番組終わってケータイ起こしたら知人サポからメールが殺到してた。やったー! きっと日光で「おーちゃん」もガッツポーズです。
2、先週のコラムをアップしてから、渡辺泰広選手負傷の報に接し大変残念に思ってました。一日も早い回復を祈ります。
3、今週の本文中、「グレイシー柔術が戦後、講道館柔道が失くしたものを保持していたように」の箇所は完全に今、読んでる『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也・著、新潮社)の影響です。これは分厚い本だけど、抜群に面白い。格闘技ノンフィクションとしては珍しく大宅賞に輝いたのも納得です。よかったらご一読を!
えのきどいちろう
1959/8/13生 秋田県出身。中央大学経済学部卒。コラムニスト。
大学時代に仲間と創刊した『中大パンチ』をきっかけに商業誌デビュー。以来、語りかけられるように書き出されるその文体で莫大な数の原稿を執筆し続ける。2002年日韓ワールドカップの開催前から開催期までスカイパーフェクTV!で連日放送された「ワールドカップジャーナル」のキャスターを務め、台本なしの生放送でサッカーを語り続け、その姿を日本中のサッカーファンが見守った。
アルビレックス新潟サポータースソングCD(2004年版)に掲載されたコラム「沼垂白山」や、msnでの当時の反町監督インタビューコラムなど、まさにサポーターと一緒の立ち位置で、見て、感じて、書いた文章はサポーターに多くの共感を得た。
著書に「サッカー茶柱観測所」(週刊サッカーマガジン連載)。
HC日光アイスバックスチームディレクターでもある。
アルビレックス新潟からのお知らせコラム「えのきどいちろうのアルビレックス散歩道」は、アルビレックス新潟公式サイト『モバイルアルビレックス』で、先行展開をさせていただいております。更新は公式携帯サイトで毎週木曜日に掲載した内容を、翌週木曜日に公式PCサイトで掲載するスケジュールとなります。えのきどさんがサポーターと同じ目線で見て、感じた等身大のコラムは、試合の感動が覚める前に、ぜひ公式携帯サイトでご覧ください!
