【コラム】えのきどいちろうのアルビレックス散歩道 第58回
2010/7/8
「Jで培ったもの」
2010W杯南ア大会(決勝トーナメント1回戦)、日本×パラグアイ。
PK戦までもつれ込む激闘の末、岡田ジャパンの冒険に終止符が打たれる。試合後、ちょっと放心状態に陥った。悔しすぎる。第2試合・スペイン×ポルトガルを見ようという気力がわかず、録画をセットして、気がすむまでボーッとしていた。
惜しかった。02年日韓大会よりリアルにベスト8に手がかかっていた。ほんの少しのところだ。まぁ、PK戦はしょうがない。敗退が決まって、PKを外した駒野友一が泣きじゃくっていたけれど、そんなのは時の運だ、サッカーを知ってる人なら誰も責めたりしない。たぶん騒ぐのは敗戦を自分で受けとめきれない人だろう。
延長も含めた120分を振り返ると、攻め手がなかったなぁという実感だ。後半36分、阿部に代えて中村憲剛を投入したところが勝負手だった。岡田監督は思いをこらし、そのタイミングを計っていた。あれより前に守備バランスを崩したらやられていただろう。中村憲剛は持ち味を発揮した。が、ついにパラグアイの堅守を破るに至らない。
読者は岡田ジャパンの冒険をどのように御覧になったろうか。最高に楽しい2週間だった。まず、それに感謝するとして、その後、例えば前田遼一がいたらどうだったか石川直宏がいたらどうだったか、(メンバー選考に文句をつける意味ではなく)想像をたくましくしておられないだろうか。今大会は本田圭祐というヒーローを生んだけれど、ベースの部分でJリーグの地力を世界に示すことのできた大会だった気がする。長谷部誠の試合後のコメント、「ほとんどの選手がJリーグでプレーしてるので、Jリーグに足を運んで盛り上げてもらいたいと思います」はホントにその通りだ。
Jで培(つちか)ったものはここまで通用する。Jで培ったものはここまで対応できる。それを見せてくれた。そして、それでは届かないものも見せてくれた。読者よ、Jを強く激しくしよう。日本サッカーを前へ進めよう。
新潟的視点に立てば、結局、カメルーン戦の交代出場以降、矢野貴章に出番は訪れなかった。まぁ、残念といえば残念だ。僕はパラグアイ戦のPK戦に矢野が登場して、皆、正気を失うシーンが見たかった。
が、僕は煎じ詰めると全てはカメルーン戦に集約されるんじゃないかと思っている。読者は4年前、ドイツ大会初戦(オーストラリア戦)、矢野が投入されたのと同じラスト8分に何が起きたか覚えておられるだろう。今大会の代表は「4年前、初戦ラスト8分に3失点惨敗」のトラウマを乗り越えるのが裏テーマになっていた。岡田監督は矢野貴章、岩政大樹といった勝ち切り要員を念入りに選考した。
ちなみに大会を前にして噴き上げた岡田バッシングの嵐も同じところに起因する。プレスには4年前、言うべきことを言わず、結果として業界全体の縮小を招いたという反省があった。サポーターにはあのとき、なすすべなく流されたという反省があった。皆、同じトラウマに苦しんでいた。
カメルーン戦のラスト8分は、日本サッカーが総力をあげて乗り越えるべき課題だった。あそこを越えなければ、その後の一切がなかった。矢野貴章は何とまぁ、そのような歴史的文脈の上で投入されたのだ。矢野は一プレーヤーとして、とんでもない責務を担っていた。
だから新潟サポーターは初めてのW杯代表、矢野貴章を大いに誇るべきだ。その凱旋を迎えるべきだ。
「ワールドカップから逆算して1年しかない中で、環境を変えることがベストなのかなという考えはもちろんありました。でも昨年、なぜ新潟に残ることにしたかというと、そのときチームがすごく調子が良くて、自分たちがどこまでできるか楽しみだったからです。もっとこのチームでやりたいと思いましたし、最後まで戦ってどこまで行けるかを見たかったんです。毎試合プレーしていて、本当に楽しかったですからね。3トップの右サイドをやってみて、『自分にはこういうプレーができるんだ』という発見がありました。上下動を繰り返したり、サイドに張っているけど中に入って仕事をするとか。それらは2トップのときにはあまりなかったプレーでしたね。
新潟というチームにすごく愛着がありますし、このチームメイトとサッカーをやりたいと思いました。サポーターやチームメイト、スタッフが僕を動かしてくれたんです。
(中略)1年前に新潟からワールドカップを目指そうと決断したとき、自分を見つめ直せたことがすごく良かったんです。もしかしたら海外に行っても、ワールドカップメンバーに選ばれたかもしれないですけど、決断して新潟に残って、今がある。それが重要なんです」(矢野貴章、『週刊サッカーマガジン』誌、2010年6月1日号インタビューより)
岡田ジャパンの冒険は終わった。次は矢野貴章、酒井高徳が自分の経験をクラブに伝える番だ。こうしてサッカーは続いていく。はるかな夢の彼方へと。
附記1、ロシアのクラブから貴章にオファーとの報道を目にしました。行かないで〜。
2、勝ったパラグアイの監督さんがめっちゃ泣いてましたね。ここでそんなに泣いていいのかという勢いで。まぁ、彼らも初のベスト8なんですねー。
3、モバアル読者の皆さんは今日の今日なんですけど、7月1日21時半から『ジャンルカナウ』(スカパー)に出演します。倉敷保雄さん司会のW杯番組です。急ですいませんが、よかったら御覧ください。
4、旅えっさの「東京発応援バスツアー」鹿島戦に申し込んだんですけど、まだ9人です。在京サポの皆さん、一緒に行き、そして帰りましょうよ。
えのきどいちろう
1959/8/13生 秋田県出身。中央大学経済学部卒。コラムニスト。
大学時代に仲間と創刊した『中大パンチ』をきっかけに商業誌デビュー。以来、語りかけられるように書き出されるその文体で莫大な数の原稿を執筆し続ける。2002年日韓ワールドカップの開催前から開催期までスカイパーフェクTV!で連日放送された「ワールドカップジャーナル」のキャスターを務め、台本なしの生放送でサッカーを語り続け、その姿を日本中のサッカーファンが見守った。
アルビレックス新潟サポータースソングCD(2004年版)に掲載されたコラム「沼垂白山」や、msnでの当時の反町監督インタビューコラムなど、まさにサポーターと一緒の立ち位置で、見て、感じて、書いた文章はサポーターに多くの共感を得た。
著書に「サッカー茶柱観測所」(週刊サッカーマガジン連載)。
HC日光アイスバックスチームディレクターでもある。
※アルビレックス新潟からのお知らせ
コラム「えのきどいちろうのアルビレックス散歩道」は、アルビレックス新潟公式サイト『モバイルアルビレックス』で、先行展開をさせていただいております。
更新は公式携帯サイトで毎週木曜日に掲載した内容を、翌週木曜日に公式PCサイトで掲載するスケジュールとなります。えのきどさんがサポーターと同じ目線で見て、感じた等身大のコラムは、試合の感動が覚める前に、ぜひ公式携帯サイトでご覧ください!
2010W杯南ア大会(決勝トーナメント1回戦)、日本×パラグアイ。
PK戦までもつれ込む激闘の末、岡田ジャパンの冒険に終止符が打たれる。試合後、ちょっと放心状態に陥った。悔しすぎる。第2試合・スペイン×ポルトガルを見ようという気力がわかず、録画をセットして、気がすむまでボーッとしていた。
惜しかった。02年日韓大会よりリアルにベスト8に手がかかっていた。ほんの少しのところだ。まぁ、PK戦はしょうがない。敗退が決まって、PKを外した駒野友一が泣きじゃくっていたけれど、そんなのは時の運だ、サッカーを知ってる人なら誰も責めたりしない。たぶん騒ぐのは敗戦を自分で受けとめきれない人だろう。
延長も含めた120分を振り返ると、攻め手がなかったなぁという実感だ。後半36分、阿部に代えて中村憲剛を投入したところが勝負手だった。岡田監督は思いをこらし、そのタイミングを計っていた。あれより前に守備バランスを崩したらやられていただろう。中村憲剛は持ち味を発揮した。が、ついにパラグアイの堅守を破るに至らない。
読者は岡田ジャパンの冒険をどのように御覧になったろうか。最高に楽しい2週間だった。まず、それに感謝するとして、その後、例えば前田遼一がいたらどうだったか石川直宏がいたらどうだったか、(メンバー選考に文句をつける意味ではなく)想像をたくましくしておられないだろうか。今大会は本田圭祐というヒーローを生んだけれど、ベースの部分でJリーグの地力を世界に示すことのできた大会だった気がする。長谷部誠の試合後のコメント、「ほとんどの選手がJリーグでプレーしてるので、Jリーグに足を運んで盛り上げてもらいたいと思います」はホントにその通りだ。
Jで培(つちか)ったものはここまで通用する。Jで培ったものはここまで対応できる。それを見せてくれた。そして、それでは届かないものも見せてくれた。読者よ、Jを強く激しくしよう。日本サッカーを前へ進めよう。
新潟的視点に立てば、結局、カメルーン戦の交代出場以降、矢野貴章に出番は訪れなかった。まぁ、残念といえば残念だ。僕はパラグアイ戦のPK戦に矢野が登場して、皆、正気を失うシーンが見たかった。
が、僕は煎じ詰めると全てはカメルーン戦に集約されるんじゃないかと思っている。読者は4年前、ドイツ大会初戦(オーストラリア戦)、矢野が投入されたのと同じラスト8分に何が起きたか覚えておられるだろう。今大会の代表は「4年前、初戦ラスト8分に3失点惨敗」のトラウマを乗り越えるのが裏テーマになっていた。岡田監督は矢野貴章、岩政大樹といった勝ち切り要員を念入りに選考した。
ちなみに大会を前にして噴き上げた岡田バッシングの嵐も同じところに起因する。プレスには4年前、言うべきことを言わず、結果として業界全体の縮小を招いたという反省があった。サポーターにはあのとき、なすすべなく流されたという反省があった。皆、同じトラウマに苦しんでいた。
カメルーン戦のラスト8分は、日本サッカーが総力をあげて乗り越えるべき課題だった。あそこを越えなければ、その後の一切がなかった。矢野貴章は何とまぁ、そのような歴史的文脈の上で投入されたのだ。矢野は一プレーヤーとして、とんでもない責務を担っていた。
だから新潟サポーターは初めてのW杯代表、矢野貴章を大いに誇るべきだ。その凱旋を迎えるべきだ。
「ワールドカップから逆算して1年しかない中で、環境を変えることがベストなのかなという考えはもちろんありました。でも昨年、なぜ新潟に残ることにしたかというと、そのときチームがすごく調子が良くて、自分たちがどこまでできるか楽しみだったからです。もっとこのチームでやりたいと思いましたし、最後まで戦ってどこまで行けるかを見たかったんです。毎試合プレーしていて、本当に楽しかったですからね。3トップの右サイドをやってみて、『自分にはこういうプレーができるんだ』という発見がありました。上下動を繰り返したり、サイドに張っているけど中に入って仕事をするとか。それらは2トップのときにはあまりなかったプレーでしたね。
新潟というチームにすごく愛着がありますし、このチームメイトとサッカーをやりたいと思いました。サポーターやチームメイト、スタッフが僕を動かしてくれたんです。
(中略)1年前に新潟からワールドカップを目指そうと決断したとき、自分を見つめ直せたことがすごく良かったんです。もしかしたら海外に行っても、ワールドカップメンバーに選ばれたかもしれないですけど、決断して新潟に残って、今がある。それが重要なんです」(矢野貴章、『週刊サッカーマガジン』誌、2010年6月1日号インタビューより)
岡田ジャパンの冒険は終わった。次は矢野貴章、酒井高徳が自分の経験をクラブに伝える番だ。こうしてサッカーは続いていく。はるかな夢の彼方へと。
附記1、ロシアのクラブから貴章にオファーとの報道を目にしました。行かないで〜。
2、勝ったパラグアイの監督さんがめっちゃ泣いてましたね。ここでそんなに泣いていいのかという勢いで。まぁ、彼らも初のベスト8なんですねー。
3、モバアル読者の皆さんは今日の今日なんですけど、7月1日21時半から『ジャンルカナウ』(スカパー)に出演します。倉敷保雄さん司会のW杯番組です。急ですいませんが、よかったら御覧ください。
4、旅えっさの「東京発応援バスツアー」鹿島戦に申し込んだんですけど、まだ9人です。在京サポの皆さん、一緒に行き、そして帰りましょうよ。
えのきどいちろう
1959/8/13生 秋田県出身。中央大学経済学部卒。コラムニスト。
大学時代に仲間と創刊した『中大パンチ』をきっかけに商業誌デビュー。以来、語りかけられるように書き出されるその文体で莫大な数の原稿を執筆し続ける。2002年日韓ワールドカップの開催前から開催期までスカイパーフェクTV!で連日放送された「ワールドカップジャーナル」のキャスターを務め、台本なしの生放送でサッカーを語り続け、その姿を日本中のサッカーファンが見守った。
アルビレックス新潟サポータースソングCD(2004年版)に掲載されたコラム「沼垂白山」や、msnでの当時の反町監督インタビューコラムなど、まさにサポーターと一緒の立ち位置で、見て、感じて、書いた文章はサポーターに多くの共感を得た。
著書に「サッカー茶柱観測所」(週刊サッカーマガジン連載)。
HC日光アイスバックスチームディレクターでもある。
※アルビレックス新潟からのお知らせ
コラム「えのきどいちろうのアルビレックス散歩道」は、アルビレックス新潟公式サイト『モバイルアルビレックス』で、先行展開をさせていただいております。
更新は公式携帯サイトで毎週木曜日に掲載した内容を、翌週木曜日に公式PCサイトで掲載するスケジュールとなります。えのきどさんがサポーターと同じ目線で見て、感じた等身大のコラムは、試合の感動が覚める前に、ぜひ公式携帯サイトでご覧ください!